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名古屋高等裁判所 平成5年(ネ)466号 判決 1997年5月28日

控訴人

甲野和江

右訴訟代理人弁護士

蜂須賀憲男

永冨史子

蜂須賀太郎

被控訴人

亡甲野金作遺言執行者甲野ハツエ承継人

乙山正

右訴訟代理人弁護士

楠田堯爾

加藤知明

田中穰

魚住直人

佐尾重久

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

との判決を求めた。

二  被控訴人

控訴棄却の判決を求めた。

第二  事案の概要

本件は、亡甲野金作(以下「金作」という。)の所有していた不動産について、金作の二女である控訴人が相続を原因とする所有権移転登記を経由したのに対し、公正証書遺言によって全財産の遺贈と遺言執行者の指定を受けた妻(その死亡に伴い、被控訴人が訴訟を承継した。)が右登記の抹消登記手続を求めたもので、金作の財産の帰属を巡って親族間に生じた一連の紛争の一つである。

控訴人は、右公正証書遺言の効力を争ったが、原審はその有効性を肯定し、被控訴人の請求を認容した。

一  当事者間に争いのない事実(明らかに争わない事実を含む。)

1  金作は、原判決添付物件目録(一)①ないし⑭記載及び同(二)①、②記載の各不動産(以下、それぞれ「本件(一)土地」、「本件(二)土地」という。)を所有していた。

2  金作は、昭和五六年一一月三〇日、糖尿病と診断され、昭和五七年二月、藤田学園保健衛生大学病院(以下「大学病院」という。)にて白内障の手術を受けた。

3  金作は、糖尿病治療のため大学病院に通院中であった昭和五七年八月六日、第一回目の脳梗塞発作を起こし、同月九日、大学病院に入院したが、同年一二月二一日、退院した。

4  名古屋法務局所属公証人白川芳澄は、昭和五八年三月八日、金作を遺言者とする昭和五八年第九五号遺言公正証書(以下「第一遺言証書」といい、その内容を「第一遺言」という。)を作成しているところ、同証書には、「金作は、その所有する財産全部を控訴人に相続させる。」旨の記載がある。

5  金作は、昭和五八年九月二六日、心不全を起こして大学病院に第二回目の入院をしたが、同年一一月二四日に実施されたCTスキャナー検査の結果、金作が再度脳梗塞を起こしていることが判明した。

6  金作の妻である甲野ハツエ(以下「ハツエ」という。)、長男である甲野良雄(以下「良雄」という。)外五名は、昭和五八年一〇月二一日、金作に対する禁治産宣告を名古屋家庭裁判所岡崎支部に申し立てた。そこで、同支部から精神鑑定を命ぜられた医師鈴木恒裕(以下「鈴木医師」という。)は、昭和五九年三月九日、金作に面接した上で、金作は心神喪失の常況にあるとの鑑定結果を提出し、これに基づいて、同支部は、同年四月七日、金作を禁治産者とする旨の審判をし、同審判は、控訴人らの不服申立てを経て、同年七月一九日、確定した。

7  名古屋法務局所属公証人西川豊長は、昭和五九年一一月一二日、金作を遺言者とする昭和五九年第一七九七号遺言公正証書(以下「第二遺言証書」といい、その内容を「第二遺言」という。)を作成しているところ、同証書には、「金作は、その所有する財産全部を包括して妻であるハツエに相続させる。金作は、ハツエを遺言執行者に指定する。」旨の記載がある。

8  金作は、昭和六三年九月一三日、腎不全を直接原因(その原因は糖尿病、脳梗塞)として死亡した。

9  控訴人は、第一遺言に基づき、本件(一)土地につき名古屋法務局豊田支局昭和六三年九月一三日受付第三二二九五号をもって、本件(二)土地につき同法務局鳴海出張所同日受付第二〇五九三号をもって、それぞれ同日相続を原因とする所有権移転登記(以下「本件登記」という。)を経由した。

10  ハツエは、昭和六三年一〇月六日、本件第二遺言に基づく遺言執行者として、控訴人に対し、本件登記の抹消登記手続を求めて本件訴えを提起したところ、同女は、平成二年九月七日、死亡したので、名古屋家庭裁判所岡崎支部は、同年一一月一四日、良雄の申立てにより、被控訴人を第二遺言の遺言執行者に選任した。

二  本件の争点及びこれに関する当事者の主張(要旨)

1  金作は、第二遺言当時、遺言能力を欠く状態であったか。

(一) 控訴人の主張

第二遺言は、次のとおり、遺言能力を欠いた状態でなされた無効のものである。

(1) 第二遺言に至る経緯とその不合理性

第二遺言は、次に述べるそれまでの経緯に照らすと、常軌を逸した内容となっており、金作が意思能力を欠いていたのを奇貨として、ハツエと良雄夫婦が主導してなさしめたものであることが明白である。

① 金作は、昭和二五年八月ころ、上郷村(現在の豊田市上郷町)にて水道工事業を始め、次第に右事業を順調に発展させて、昭和四三年八月七日には、法人化して株式会社甲野ポンプ工業所(昭和六一年六月二五日、「ユタカノ工業株式会社」に商号変更。以下「本件会社」という。)を設立するに至った。

設立当初の本件会社の役員は、代表取締役である金作、取締役であるハツエ、良雄、長女の近藤一代(現姓。以下「一代」という。)らによって構成されていた。

② 金作は、本件会社をワンマン経営していたところ、当初は、その後継者として良雄を考えていたものの、昭和四六年ころには、良雄の杜撰な仕事ぶりに強い不満を抱くようになった。加えて、良雄は、昭和四六年初めころ、それまで交際していた清水三千代(良雄の現在の妻。以下「三千代」という。)との結婚を希望するようになったが、金作は、同女の異性関係を理由にこれに強く反対し、良雄に対し、三千代と別れて事業を承継するか、三千代と結婚して事業の承継を諦めるかの選択を迫った。

そこで、良雄は、いったんは、三千代と別れる道を選択する旨表明したが、あいかわらず同女との交際を継続したことから、金作は、良雄は事業の後継者として不適任であると考えるようになった。

③ 他方、控訴人は、高校を卒業した昭和四三年三月から本件会社に勤めていた今井勉(現姓甲野。以下「勉」という。)と恋愛関係にあったところ、金作は、勉の仕事ぶりを高く評価し、やがて、控訴人が勉と結婚して甲野姓を継いでくれるならば、事業を委ねることを決意するに至った。そこで、控訴人は、昭和四七年一二月に挙式し(入籍は昭和四八年六月一三日)、甲野姓を名乗って本家にて生活するようになった。

良雄は、昭和四八年三月二六日、金作の反対を押し切って三千代と結婚することを表明したが、その際、甲野家及びその事業の後継者を控訴人夫婦とすることが確認された。そして、良雄は、同年五月に挙式し(入籍は昭和四九年三月一二日)、本家から離れた本件会社の社宅から通勤することとなった。

④ ハツエは、従来から、ワンマンで女癖が悪かった金作に反感を抱いていたが、良雄に甲野家や事業を承継させたいとの希望を有していたことから、ことあるごとに金作と対立するようになり、昭和四八年六月ころには家出する事態となった。この時は、ハツエの実母が仲裁に入り、同年九月九日、良雄及びハツエが、甲野家及び本件会社は控訴人夫婦が承継することについて異議はないことなどを内容とする誓約書を作成することにより、元のさやに納まった。

⑤ 良雄は、その後も勤務態度が不良であったため、昭和四九年二月、金作によって解雇され、やむなく保険会社の外交員として稼働しつつ糊口を凌ぐようになった。その後、いったんは金作の許しを得て、本件会社に勤務するようになったが、再び勤務成績不良により、解雇され、取締役の地位も解任された。なお、良雄は、昭和五五年八月に再度、本件会社に入社したが、稼働状況は最悪で、昭和五九年一月に最終的に解雇され、現在に至っている。

そして、良雄に同調するハツエについても、昭和五七年一月一八日、金作によって本件会社の取締役の地位から解任され、これに代わって勉が、昭和五八年一一月一一日、取締役に就任している。

なお、昭和五八年三月八日には、金作の所有する財産全部を控訴人に相続させる旨の第一遺言がなされている。

以上のとおり、甲野家においては、十数年の経過により、金作―控訴人―勉の系列と、ハツエ―良雄―三千代のそれとが対立し、その確執は決定的なものになっていたところ、第二遺言は、この構造に真正面から反する不合理なもので、金作の真意に出たものとは考えられない。

また、控訴人夫婦は、昭和五八年九月から第二遺言時までの金作の入院費用二〇〇万円以上を支払っており、その後も入院費用が膨大な金額に達することが容易に予測できたから、これらの状況について何らの配慮もしていない第二遺言は、著しく不当なものといわざるを得ない。

(2) 第二遺言当時の金作の精神状態

① 第二回目の入院当時の金作の精神状態

カルテ等によると、金作は、大学病院に第二回目の入院をした当時、

ア 見当識まだ。意識レベル清明。テレビでいろいろ観ても内容を記憶していない。排尿時は分からない。(昭和五八年一〇月二〇日)

イ 意識清明。「この前面会に来た人はだれ?」の問に対し、「(しばらく考えた後)近所の人」、「名前は?」の問に対し、「覚えていない。」との応答。(昭和五九年一月一三日)

ウ 痴呆(記銘力低下、自発性低下、記憶の障害)は見られる。(同年二月九日)

エ 痴呆が進行? 自発性ほとんどなし。(同年三月七日)

の状態であり、意識清明状態であっても、見当識、記銘力障害が根強く残っていて、これらは、単に意識障害に由来した回復可能な一過性の症状ではなく、多発性脳梗塞に基づく痴呆の状態というべきである。

このことは、昭和五八年一一月二四日のCTスキャナー検査で判明した右尾状核付近の梗塞の明瞭化とともに、左側視床に加えて右側視床前角にも新たな梗塞が生じていたこと、さらに脳室と脳溝の拡大も進行し、全体として脳萎縮が進んでいたことからも明らかである。

② 禁治産宣告当時の金作の精神状態

金作に対する禁治産宣告申立事件において、鈴木医師による精神鑑定が行われた昭和五九年三月当時、金作は、

ア 記銘力が著しく衰え、新しいことの記憶が困難であるのみならず、昔の記憶もかなり混乱し、物事を理解した上で行動することはほとんどできない。

イ 自発性の欠如が著しく、すべてに無関心で、何かをやらせるといやがりもせず、素直に応ずる。

ウ リハビリに他の病棟へ出かける以外は、終日呆然としてベッド上で無表情に口も聞かずに過ごすか眠っている状態であり、話しかけなければ一日でも黙っているし、食事も食べさせなければ催促することもなく、排便のためにおむつを着用している。

エ もっとも、具合のいい時は、応答もはっきりし、かなりのことも思い出すことができ、トイレもたまには自発的に行くこともあった。また、自分の生年月日、自宅の住所、終戦の年などは正確に答えることができ、簡単な暗算、三桁の数字の逆唱も可能である。

以上の状態であったところ、これらは、痴呆の判断基準(アメリカ精神医学会のDSM―Ⅲによる。)である五項目、すなわち、

A 知的能力の喪失が、社会的、職業的機能を十分妨げるほど重篤なもの

B 記憶障害

C 抽象的思考の障害、判断の障害、その他の高次皮質機能の障害―例えば、失語、失行、失認の少なくとも一項目

D 意識混濁のない状態

E 身体的診察、臨床検査又は病歴からその障害に病因的関連を有すると診断される器質因子の証拠があるかあるいはそれが推定できるもの

の要件を全て満たしている。

それ故に、鈴木医師は、金作を多発性脳梗塞痴呆と判断し、今後の見通しとして、悪化することはあっても、著しい改善は望み難いと結論づけている。

③ 昭和五九年五月から第二遺言までの金作の精神状態

カルテ等によると、金作は、昭和五九年五月以降も、「ボーとしている。」ことが頻繁に見られる反面、自ら看護婦等に対して積極的に働きかけたり、問いかけたりした旨の記載が非常に少なく、自発性の低下、無感動、無関心といった症状が継続していたことが明らかである。

すなわち、金作は、「記銘力見当識障害あり(同年五月一二日)」、「痴呆(記銘力低下、自発性の低下、記憶の障害)(同月二五日)」、「痴呆(同年六月四日、七日、一一日、一五日、二〇日、二二日、二六日、二九日)」、「記銘力障害(同年七月二日)」、「相変わらず前痴呆・記銘力障害(同月一六日)」、「現在のところ、今までのCVAによる症状が徐々に悪化してきている(同年九月一一日)」、「ボケひどくなっている(同月一八日)」状態であり、痴呆が次第に悪化しつつあった。ちなみに、金作が月日を正確に答えたのは、五月中は一八回中一回、六月中も一回(しかもカレンダーを見ている。)、七月中も一回にすぎず、食事をとった事実は全て忘れている。

このことは、長谷川式簡易知的機能評価スケールによる金作の検査結果(一般に、二〇点以下は痴呆を疑い得るし、一〇点以下はかなり確実に痴呆と判断できるとされている。)が、14.5点(同年七月三日)、17.5点(同月一一日)、一一点(同月二五日)、15.5点(同年八月三日)、12.5点(同年九月一日)と全般的に低落傾向を示し、しかも全て前痴呆(中程度の痴呆)の結果となっていることからも裏付けられる。

④ 第二遺言当時の金作の精神状態

金作は、昭和五九年九月に入ると、脳病変の悪化を疑わしめる言動を示すことが多くなった。すなわち、カルテ等によると、金作は、「お手洗に行ってから自室が分からなくなる。」(同月七日)、「リハビリに行ったことも覚えていないし、トイレがどこにあるか分からなくていつも探している。」(同月八日)という症状が現われた上、「今日はわしが当番だから下の受付に行かんといかん。」(同月八日)、「明日は当直だから行かなくてはいけない。」(同月一一日)など、せん妄といってよいような不可解な言動が頻発するようになった。

体力面でも、「リハビリ後は睡眠とらないと食事とれない位疲れる。」(同月七日)、「リハビリで疲れる。」(同月一八日)、「リハビリ中に嘔吐」(同月二七日)、「気分悪くないが起きたくない。」(同月二八日)、「問いかけに対し返答なく閉眼してしまう。」(同年一〇月一日)、「臥床中で散歩行く気力もなし。」(同月一〇日)、「動きたくないと食欲もあまりなし。」(当月一一日)などと、リハビリに対する意欲が薄れ、自発性もなくなってきたことが明らかである。

このような症状を受けて、同年一〇月一日、金作に対する頭部CTスキャナー検査が実施され、その結果、新たな脳梗塞の発生と病巣の拡大が確認されたものであり、これらを総合すると、金作の精神状態は、第二遺言当時、階段状に悪化していく過程にあったものであり、全体として典型的な多発性脳梗塞に基づく痴呆の経過を辿ったというべきである。

(二) 被控訴人の主張

控訴人の主張は否認する。

(1) 第二遺言に至る経緯とその整合性

① 金作が、占いの結果を信じて良雄と三千代の結婚に反対したことは事実であり、この点と仕事上の意見の食違いから、昭和四八年ころ、良雄は一時期本件会社から離れている。しかし、その後、金作は、わざわざ良雄宅に出向き、もう一度本件会社に戻るよう懇請した。そこで、良雄は本件会社に戻ったが、しばらくして仕事のやり方について金作と意見が食い違い、昭和五三年ころ、本件会社から離れた。ところが、金作は、昭和五六年八月ころ、再度良雄宅を訪れ、「やはりお前でなくてはだめなので、明日から本件会社に戻ってくれ。」と懇請したので、良雄は、本件会社に復帰した。

そのころ、控訴人夫婦は、金作と喧嘩して同人宅から出て行ったが、金作が糖尿病を原因とする目の手術をした昭和五七年二月ころから、時々金作宅を訪れるようになり、勉も小牧から本件会社に通勤するようになった。

② 金作は、昭和五七年八月ころ、脳梗塞発作を起こし、大学病院に第一回目の入院をした。その際、ハツエが終日付添い看護をしたが、控訴人夫婦は、これを奇貨として、金作宅に家財道具を運び込んで生活するようになった上、金作の管理していた金庫の鍵、実印、権利証、預金通帳などを取り込み、勉が本件会社の社長のように振る舞い始めた。

そこで、ハツエと良雄は、勉に対し、会社運営について話し合いを求めたが、勉は、「お前は役員ではないから関係ない。」との暴言を吐き、これに全く応じようとはしなかった。

③ 金作は、昭和五七年一二月二一日、大学病院を退院したが、全く仕事のできる状態ではなく、仕事の指示をすることもなく、散歩をしてテレビを見ることを除いて、ほとんど寝ている状況であり、抜け殻のような人間になってしまった。

このような状態で、第一遺言書が作成されているが、右は、金作に十分な判断能力が回復しないまま、控訴人夫婦によってなされたものであることが明白である。

④ その後、金作の弟である甲野晴昭(以下「晴昭」という。)や姉の宇野キク(以下「キク」という。)らが、控訴人夫婦とハツエ及び良雄との間の円満な解決を図るべく仲裁に入ったが、控訴人夫婦がこれに応じないまま推移し、昭和五八年九月二六日、金作が第二回目の入院をすることになった。

そこで、ハツエ、良雄及びその他の親族ら五名は、同年一〇月二一日、金作に対する禁治産宣告の申立てをするとともに、同年一一月一一日、金作の印鑑登録抹消の手続をした。

ところが、右同日、控訴人夫婦らは、意思能力のない金作の病床を訪れ、金作が本件会社の社長を辞任し、勉が社長に就任したと一方的に宣言し、後日これをもって取締役会と称して、本件会社の代表者変更の登記手続をした。

加えて、控訴人夫婦は、同年一二月ころ、病床の金作を訪れ、虚言を弄して白紙の委任状用紙に金作の署名をさせ、これを利用して印鑑の再登録をなした上、ほしいままに金作名義の不動産二〇筆以上に、控訴人や勉を権利者とする所有権移転登記、根抵当権設定仮登記などを経由した。

なお、勉は、前記禁治産宣告の申立てを理由に、良雄を本件会社から解雇している。

⑤ 金作は、昭和五九年春ころから、次第に是非弁別の能力を回復し、折に触れて控訴人夫婦の行った不動産の名義移転などの財産略奪行為に激怒していた。逆に、長い間、ワンマン的行動でつらい思いをさせていたにもかかわらず、入院中、つきっきりで看病してきたハツエに対して深い感謝の念を抱くようになり、第二遺言をすることを決意するに至ったものである。

(2) 第二遺言当時の金作の精神状態

① 金作の痴呆様症状の主たる原因は、内科的疾患に起因する変動する意識障害にあったというべきである。すなわち、金作は、第二遺言書の作成前である昭和五九年一〇月二二日ころから、簡単な会話ではあるが、看護婦の質問を理解し、正しい返答をするようになっている。そして、金作は、第二遺言書作成後である同年一一月一七日には、理解力、判断力とも正常で、自らの意思で適切な指示を与え、ほぼ正常人の精神能力を示しているが、第二遺言作成当日も、右と同様の精神状態にあったものである。

このような精神状態は、意識清明以外の何ものでもなく、意識が清明になるや、金作の痴呆症状は消失している。

② 禁治産宣告を受けた遺言者が、「本心に復した」ことを確認するには、第一に、被験者の顔貌、姿勢、動作、発語等を観察しながら声をかけ、あるいは第三者の発問に対する被験者の理解力とその早さ、時、場所、周囲の状況及び自己や家族に対する見当識の良否、注意力の良否を知ることが必要であるところ、第二遺言に立ち会った医師山本纊子(以下「山本医師」という。)は、金作の顔を見て、時と周囲の状況に対する見当識、リハビリの様子、自発的な応答、第三者による発問に対する応答ぶりとその内容を観察し、金作が、前記のような正常人としての精神能力を具備していたことを確認している。

③ 金作は、第二遺言の際、全財産をハツエに相続させるとの陳述をした後、遺言執行者を誰にするかが問題となった段階で、いったんは弟の晴昭の名を上げた。しかし、同人の手を煩わさなくとも妻のハツエが遺言執行者になれるとのアドバイスを受けて、第二遺言どおり、ハツエを遺言執行者に指定することを決意したものである。

2  第二遺言証書は、法定の要件を欠くものとして無効か。

(一) 控訴人の主張

(1) 民法九七三条は、禁治産者が遺言をするには、医師二名以上の立会いと、同医師らが遺言者は遺言時に心神喪失の状況になかったことを認める旨の付記及びその署名捺印をすることを要件としているところ、第二遺言書はこれらを欠いており、同法九六〇条により無効というべきである。

なお、その後、第二遺言書に右付記及び立会医師らの署名捺印が付加されたとしても、右は証書の訂正について規定する公証人法三八条の要件を充足しないので、同条四項により、その効力を生じないというべきである。

(2) 公証人法三六条は、証書の記載事項を規定しており、その九号には、「通事又ハ立会人ヲ立会ハシメタルトキハ其ノ旨及其ノ事由並其ノ通事又ハ立会人ノ住所、職業、氏名及年齢」が掲げられている。ところが、第二遺言書は、長坂顕雄医師(以下「長坂医師」という。)、山本医師の両名が立ち会った旨及びその事由、年齢の各記載を欠いているから無効である。

(3) 公証人法三五条は、「公正証書ヲ作成スルニハ、其ノ聴取シタル陳述、其ノ目撃シタル状況其ノ他自ラ実験シタル事実ヲ録取シ且其ノ実験ノ方法ヲ記載シテ之ヲ為スコトヲ要ス」と規定している。したがって、公証人としては、金作が禁治産者であることを証する書面を徴し、その時点において金作が本心に復していた事実について確信を持つため、自ら立会医師との間でやりとりがあって然るべきであり、公正証書にもこれらの事実を記載すべきところ、第二遺言書は右記載を欠いている。

(4) 民法九六九条一号は、公正証書遺言をするについては、証人二人以上の立会いを必要とする旨規定しているところ、同法九七四条三号は、右証人資格を欠く者として、「推定相続人、受遺者及びその配偶者並びに直系血族」を上げている。これは、遺言の公正を確保するために、遺言者に不当な影響を及ぼすおそれのある、遺言内容と密接な利害関係を有する者を排除する趣旨である。

しかして、第二遺言については、証人として加藤知明弁護士が立ち会っているところ、同弁護士は、金作に対する禁治産宣告申立事件についてハツエの代理人となっていた者であるし、金作(法定代理人後見人ハツエ)から控訴人に対する不動産仮処分申立事件についても、ハツエから選任を受けて代理人となっているなど、実質的にハツエと同視すべき立場にある。

特に、金作は、第二遺言当時、知的能力が低下して周囲の影響を受けやすく、自主的判断や自発性がほとんど無くなっていたと考えられるから、受遺者と同視すべき代理人が証人となることは、通常の場合よりも遺言の公正が損なわれる危険性が高いといわねばならず、結局、第二遺言は、前記要件を欠くものとして無効である。

(二) 被控訴人の主張

(1) 控訴人の主張(二)(1)は否認する。

第二遺言書は、当初から、遺言者は遺言時に心神喪失の状況になかったことを認める旨の立会医師二名の付記及びその署名捺印が具備されており、ただその謄本の交付を申請した際、公証役場の事務処理上の過誤により、これらが欠落した第二遺言書の謄本が作成されたことがあるにすぎない。

したがって、第二遺言書の原本に手を加えたわけではないから、公証人法三八条に定める証書の訂正の問題も生じない。

(2) 控訴人の主張(二)(2)は争う。

公証人法三六条九号は、同法三〇条及び三四条と関連する規定であり、同号の「立会人」は、同法三〇条の必要的立会人及び請求による立会人を意味する。したがって、民法九七三条所定の立会医師はこれに含まれない。

仮にそうでないとしても、「立会人ヲ立会ハシメタルトキハ其ノ旨及其ノ事由並其ノ通事又ハ立会人ノ住所、職業、氏名及年齢」は、法律行為に関する事項ではなく、民法はこれらの記載を要求しているものではないので、第二遺言書が右記載を欠くとしても効力に何らの影響を与えるものではない。

(3) 控訴人の主張(二)(3)は争う。

(4) 控訴人の主張(二)(4)のうち、加藤知明弁護士が、第二遺言に際し、証人として立ち会ったこと、同弁護士が、禁治産宣告申立事件や不動産仮処分申立事件について、ハツエの代理人となり、あるいはハツエから委任を受けて代理人となったこと、以上の事実は認めるが、第二遺言が無効であるとの主張は争う。

民法九七四条の定める証人欠格者は、制限的列挙と解されており、拡大解釈することは許されないところ、加藤弁護士のように「推定相続人、受遺者から訴訟行為の委任を受けた者」がこれに含まれないことは明らかである。

3  金作は、昭和五八年二月ころ、控訴人及び勉に対し、本件各土地を贈与したか。

(一) 控訴人主張

前記(1(一)(1))のとおり、金作は、控訴人夫婦を全面的に信頼し、両名を将来の甲野家及び本件会社の後継者に予定していたところ、昭和五八年二月ころ、ハツエ及び良雄の意を受けた晴昭らが、金作に対し、「早く良雄に新家を作ってやれ。(金作の)資産を四つに割ってしまえ。」などと執拗に要求した。

これに対し、金作は、本件会社の業績が悪く、良雄に新家を与えることができない状況であることが明白であるにもかかわらず、自分勝手なことばかり要求するハツエ及び良雄に対して激しく立腹すると同時に、このまま放置すると、自分にもしものことがあった場合、ハツエらが本件会社を好きなようにしてしまうことを危惧した。

そこで、金作は、そのころ、控訴人夫婦に対し、その所有する資産全部を贈与し、二人で本件会社をしっかり守るよう指示したものである。

なお、控訴人夫婦は、贈与税や登録免許税の関係で、株式や不動産全部の所有名義を直ちに移転することをしなかったものである。

(二) 被控訴人の主張

右控訴人の主張は否認する。

前記(1(二)(1)④)のとおり、控訴人夫婦は、悪質にも虚言を弄して金作に署名させた白紙の委任状用紙を利用して印鑑の再登録をなした上、ほしいままに金作名義の不動産二〇筆以上に、控訴人や勉を権利者とする所有権移転登記、根抵当権設定仮登記などを経由したものであり、このような財産略奪行為に対し、昭和五九年春ころから次第に是非弁別の能力を回復した金作は激怒していたものであり、控訴人主張の贈与契約を締結したことはあり得ない。

第三  証拠関係

原審及び当審の証拠関係目録記載のとおりであるから、これらを引用する。

第四  争点に対する判断

一  争点1について

1  第二遺言に至る経緯について

(一) 当事者間に争いのない前記の事実に、証拠(甲第二号証の一ないし一六、第八号証、第一二号証、第一三号証の一ないし五、第一四号証の一、二、第一八号証の一ないし二五、第一九、二〇号証、第二一号証の一、二、第二二、二三号証、第二四号証の一、二、第二五号証、第二七号証、第三〇号証、第三三号証、第三五号証、第三六号証の一ないし五、第三七号証の一ないし三、第三八号証の一ないし五、第四〇号証、第四二ないし第四四号証、第四五号証の一ないし七、第四八ないし第六一号証、乙第六号証、第一〇ないし三〇号証、第四四ないし第四六号証、第四八ないし第五二号証、第五四ないし第五九号証、第六五ないし第六九号証、第七一号証、第七六ないし第八七号証、第九〇、九一号証。ただし、甲第二〇号証、第二二号証、第二七号証、第三〇号証、第四八ないし第五五号証、第六〇、六一号証及び乙第五四ないし第五九号証、第七六ないし第八七号証、第九〇、九一号証については、認定事実に反する部分を除く。)並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 金作は、昭和二五年八月ころ、愛知県愛知郡豊明村(現在の豊明市)にて水道工事業を営んでいた実家を異母弟の晴昭に委ね、自らは実家を出て、上郷村(現在の豊田市上郷町)にて水道工事業を始めた。その後、金作は、妻であるハツエの助力もあって、次第に右事業を順調に発展させ、昭和四三年八月七日には、本件会社を設立して法人組織で仕事をするようになった。その当時の本件会社の役員は、代表取締役である金作、取締役であるハツエ、良雄、一代によって構成されており、控訴人は、未だ若年であったため、直接には右事業に関与することはなかった。

ところで、金作は、何でも自分の意思を通さずにはいられないワンマン的性格で、特に金銭や財産については他人の容喙を許すことはなく、妻であるハツエに対してすら、自由になる金銭をほとんど持たせないほど徹底していた。また、受注先の大部分が官公庁であった関係で、仕事については責任感が強くかつ几帳面であるが、他人との協調を顧ない頑固さがあった外、女性関係にややルーズで、家庭内がもめることがしばしばあった。

(2) 良雄は、小学六年生のころから金作の手伝いをすることがあったが、高校時代には、現場に出て仕事を手伝うようになり、昭和三九年春に高校を卒業した後は、金作の下で従業員として稼働し始めた。しかし、前記のような性格であった金作にとって、やや几帳面さを欠く良雄の仕事ぶりは満足できるものではなかった。

また、良雄は、かねてより三千代と交際していたところ、昭和四六年初めころ、同女との結婚の希望を表明したが、金作は、豊田市挙母町にあった土着信仰である「庚申さん」の占いの結果を信じてこれに強く反対し、いったんは三千代との交際を断つことを約しながら密かにこれを続け、自分の勧めた縁談を断った良雄に対して不快感を募らせた。

これに対し、ハツエは、良雄の立場に同情し、金作に内密で相談を受けたりしていたので、金作は、ハツエに対しても立腹することがあった。その反面、金作と控訴人との仲は緊密さを増していった。

(3) 勉は、工業高校を卒業した昭和四三年三月から、それまでアルバイトをした経験のある本件会社に入社し、勤め始めたが、やがて控訴人と恋愛関係に入り、昭和四七年一二月一五日、金作の知人で市会議員をしていた大岡久雄夫婦の仲人で挙式した。その際、勉が長男でなかったことと、金作が勉の仕事ぶりを評価し、将来の事業後継者として控訴人夫婦が想定されたことなどの理由で、勉は甲野姓を名乗り(入籍は昭和四八年六月一三日)、金作らと同居生活を送るようになった。

他方、良雄も、昭和四八年五月七日、大岡久雄夫婦の仲人で三千代と挙式した(入籍は昭和四九年三月一二日)が、金作の事業後継者が控訴人夫婦とされた関係で、良雄については折を見て新家を建てることとされ、本家から五〇〇メートルほど離れた社宅から本件会社に通勤することとなった。

(4) ハツエは、従来から、頑固な金作との仲がしっくりいかなかったところ、昭和四八年六月ころ、そのワンマン的言動に耐えきれず、良雄の手助けで実家に帰った。この時は、ハツエの実母らが仲裁に入り、同年九月九日ころ、良雄及びハツエが、金作の事業の後継者は控訴人夫婦であり、良雄及びハツエは金作に迷惑をかけたことを謝罪する旨記載された控訴人の起案にかかる誓約書に署名指印することにより、紛議は一応納まった。

しかし、良雄は、その後も仕事を巡って金作と衝突することがあり、昭和四八年末ころ、本件会社の勤務をやめ、生命保険会社の外交員として稼働することになったが、半年ほど経過したころ、金作の指示で本件会社に復帰した。ところが、良雄は、昭和五三年ころ、再び仕事の上で金作と衝突し、前記社宅を出て県営住宅に移るとともに、トラック運転手として稼働するようになった(同年六月二一日付けで本件会社の取締役辞任登記がなされている。)が、昭和五六年八月ころ、金作の指示で、三度、本件会社に復帰することとなった。

(5) 控訴人は、前記のとおり、金作夫婦と同居生活を送っていたところ、昭和五六年七月末ころ、金作の女性関係を巡って口論となり、家族ともども小牧市に転居することになり、勉も本件会社をやめて別の仕事に従事することとなった。もっとも、右転居後しばらく経過すると、金作は、時々、控訴人方を訪れ、勉と仕事の話をすることがあった。

ところで、金作は、昭和五七年一月中ころ、糖尿病を原因とする白内障により、視力が著しく落ちていたために、僅かなことで怒りやすい精神状態に陥っていた。ハツエは、このような金作と生活するうち、ノイローゼ状態になり、良雄の勧めで三日間ほど静養のために良雄宅に引き取られた。その間、三千代が金作の世話をすることになっていたが、金作はこれが気に入らず、受け入れようとはしなかった。

控訴人は、同月一八日、用事で金作を尋ねてきて、同人が一人で不自由しているのを見つけ、話し合った結果、勉が本件会社に復帰し、ハツエをその取締役の地位から外すことなどで合意した(ハツエについては、同月二六日付けで本件会社の取締役退任登記がなされ、これと入れ替わりに勉が取締役に就任した旨の登記がなされている。)。そして、勉は、それまでの仕事の整理がついた同年三月ころ、本件会社に復帰し、稼働し始めた。

(6) 金作は、昭和五七年二月ころ、大学病院にて白内障の手術を受けて視力を回復し、以後、糖尿病治療のため、同病院に通院するようになったところ、同年六月ころ、家庭内の紛議を解決すべく親族会議が開かれた。

同会議には、ハツエ、良雄、控訴人、一代、晴昭、キク、大岡夫妻らが出席したが、一代が、金作の事業の後継者は控訴人夫婦とし、良雄に対しては新家を作ってやることを提案し、金作も新家を作ってやることに前向きの発言をしたので、良雄は、気軽に実家に立ち寄れないような状態では承服できないとの留保付ではあったものの、右提案を概ね受け入れる態度を示した。

(7) 金作は、昭和五七年八月六日、業者らの会合の席上、第一回目の脳梗塞発作を起こし、同月九日、大学病院に入院したが、これと入れ違いのように、控訴人の家族は、小牧市の家を引き払って、金作宅に転居した。

その後、控訴人夫婦は、本件会社や金作の印鑑、書類などを管理するようになり、その経営の実権を握ったことから、良雄との間で頻繁にトラブルが生じるようになり、ついには良雄に対して仕事を与えず、給与も大幅に減額するといった事態も生じた。この間、良雄の依頼を受けた晴昭やキクらが、控訴人夫婦に対して善処方を申し入れたことがあったが、同夫婦はこれに応じようとはしなかった。

なお、金作は、同年一二月二一日、症状が軽快して大学病院を退院したが、覇気が消え、仕事に対する関心も薄れた様子で、散歩をしたりテレビを見る以外は、寝ていることが多くなった。なお、金作は、昭和五八年三月八日、公証人役場に赴いて公正証書遺言の作成を嘱託し、これに基づき第一遺言書が作成されている。

(8) 金作は、昭和五八年九月二六日、心不全を起こして大学病院に二回目の入院をしたが、検査の過程で、第一回目の入院時とは異なる脳梗塞の部位が発見されており、その状態も、ハツエが誰か分からないほど悪化していた。

このような状態で、控訴人夫婦が本件会社や金作の実印等を保管していることに不安を感じたハツエや良雄は、弁護士と相談の上、金作の財産保全を目的として、昭和五八年一〇月二一日、晴昭、キクらと共同して、金作に対する禁治産宣告の申立てを名古屋家庭裁判所岡崎支部にする(右申立てについては、鈴木医師による精神鑑定を経て、昭和五九年四月七日、金作を禁治産者とする旨の審判がなされ、控訴人らの不服申立てを経て、同年七月一九日、確定している。)とともに、同年一一月八日ころ、本件会社の取引金融機関に預金の解約等に応じないよう警告したり、市役所に印鑑証明の発行をしないよう要請するなどし、同月一一日には、ハツエの名前で、亡失を理由として印鑑登録の抹消手続をした。

(9) このような動きを知った控訴人夫婦は、昭和五八年一一月一一日夕刻、弁護士及び一代とともに大学病院に入院中の金作を訪れ、ハツエの制止を無視して、前記申立てなどがなされたことと、このままでは本件会社の運営ができないことから、代表者を勉に変更することを求めたところ、金作は、右申立てについては不快感を示したが、代表者変更については、「そうかなあ。」と曖昧な返答をするにとどまった。

その後、金作名義の代表取締役辞任届や大学病院での取締役会開催の議事録等が作成され、同月一二日付けで勉が本件会社の代表取締役に就任した旨の登記がなされたが、右各書類の金作作成部分の署名押印は、いずれも金作自身によるものではなかった。また、同年一二月二二日付けで、本件会社の株主総会議事録及び取締役会議事録が作成され、これに基づいて勉が代表取締役に重任された旨の登記がなされたが、右議事録には大学病院に入院中の金作が出席した旨記載されている上、金作作成部分の押印は、金作自身によるものではなかった。さらに、勉は、昭和五九年一月一七日、金作の代理人としてその印鑑登録手続を行ったが、その際に使用された代理権授与通知書の金作の押印も金作自身によるものではなかった。

(10) 勉は、昭和五九年一月二四日、本件会社の代表取締役として、取引金融機関に対する前記警告を理由として、良雄に対し、懲戒解雇する旨の意思表示を行った。

また、金作は、本件各土地を含む一九筆の土地及び建物三棟等の不動産を所有していたところ、控訴人夫婦らは、保管していた金作の印鑑、登記済証などを用いて、これらの不動産につき、自分らを権利者として、昭和五八年一二月八日受付所有権保存登記、同月二三日受付所有権移転登記、昭和五九年三月三〇日受付条件付永小作権設定仮登記、同年四月七日受付根抵当権設定仮登記、同日受付賃借権設定仮登記、同年七月一一日受付永小作権設定登記、同年九月一三日受付所有権保存登記、同月二五日受付所有権移転登記などを次々に経由したり、金作の有する本件会社の株式が控訴人夫婦や一代らに移転したことを示す書類を作成したりした。

(11) 金作は、良雄やハツエらから控訴人夫婦による前記財産移転行為等を聞かされて立腹し、昭和五九年一月二九日ころ、良雄に対する懲戒解雇の内容証明郵便の末尾に「甲野勉を新社長にする事はゆるさない 又社長にする許可も出していない」との文言を記載し、同年八月一六、一七日ころには、金庫の鍵や実印の返還を求めたり、土地の所有名義を変えたことについて非難する手記を作成し、さらに同年九月一六日ころには、親戚に対して、自分の死後はハツエに全財産を渡すことを依頼する書類を作成するなどしている。

なお、控訴人夫婦は、金作の入院中、その入院費用を支弁していたが、終始付添いをしていたハツエらの生活費については、ほとんど支払うことがなく、見舞いも時々病室に顔を見せる程度であった。

(二) 以上の事実によれば、金作は、第二回目の入院までは、控訴人やその夫である勉に概ね好意的な姿勢を示しているのに対し、良雄に対してはしばしば厳しい態度をしていたことが明らかである。したがって、良雄に同情的な言動を示すことの多かったハツエに全財産を遺贈する旨の第二遺言の内容は、右時点までの経緯と符合しない印象を与えることは否定し難い。

しかしながら、金作は、いったん機嫌を損なうと、良好な関係にあって同居生活を送っていた控訴人夫婦に対しても、転居を余儀なくさせるほどの言動を示すことがあったのは前記認定のとおりである上、金作は、金銭面に細かく、全て自分の指図に従わなければ気がすまないワンマン的性格の持ち主であったから、前記のとおり、控訴人夫婦が、金作の第二回目の入院以降、その保管していた実印、登記済証などを利用して、本件会社の代表取締役変更の手続をしたり、金作所有の財産の名義を次々に移転した事実を知って、控訴人夫婦に対する従来の好意的態度を変え、逆に、それまで、金作のワンマン的言動に耐え続けるほかなかったにもかかわらず、最後まで看護のために付き添っているハツエに感謝の念を抱くようになったと考えることにも相当の根拠があるというべきである。

そうすると、第二遺言の内容は、これに至るまでの全体の経緯と整合しない不合理なものとはいえず、金作が意思能力を欠いていたことを奇貨として、ハツエ及び良雄夫婦がなさしめたものであるとの控訴人の主張は採用できない。

2  金作の精神状態について

(一) 証拠(乙第九号証の一ないし六、第三四ないし第三六号証、第四〇号証、第四三号証、第六三号証)によると、大学病院の第二回目の入院記録に記載された、金作の精神状態を窺わせる言動及び体調に関する記述(ただし、第二回目入院時から第二遺言書の作成後である昭和六〇年一月五日までのもの)のうち主だったものは、別紙入院経過表記載のとおりであることが認められる(なお、〔 〕で囲まれた事項は看護記録中の記載であり、それ以外の事項は医師による記載である。)。

(二) ところで、証拠(乙第三一号証の二ないし四、第三二号証の二、原審における鑑定、証人長坂顕雄、当審における証人中川実、同灘波益之)によると、いわゆる痴呆とは、主として中枢神経系、脳の器質的疾患により、いったん獲得した知的能力が不可逆的に損なわれ、社会生活に支障を来すに至った状態をいい、その中でもアルツハイマー型は、およそその症状の回復といった事態は考えられず、一般に重症なものであるのに対し、多発性脳梗塞を原因とする場合は、その程度にもよるが、短期的には症状が良くなったり悪くなったりしながら、全体としては節目節目ごとに段階的に知的能力が低下するという動揺性の経過をたどることが多いこと、主たる症状は、記銘力減退と人格水準低下であり、人格の先鋭化(元々の人格、性格が強く現われること)や情動失禁(些細なきっかけで感情がほとばしり出ること)も現われやすくなること、夜間にせん妄状態(幻覚等を伴って不穏になる状態)を呈することも多いこと、また、人格のすべての面で知的退行現象を示すものではなく、特定の部分は抜け落ちるものの、その他の部分は比較的その人らしさが保たれる、いわゆるまだら痴呆の状態を呈することが多いこと、糖尿病や高血圧などの基礎疾患を有する者は、合併症としての血管障害を起こしやすく、脳梗塞の危険因子として上げられていること、以上の事実が認められる。

しかして、金作が糖尿病の基礎疾患を有していたことは前記(当事者間に争いのない事実2)のとおりであるところ、別紙入院経過表記載の記述から窺われる金作の精神状態は、まさしく右の多発性脳梗塞を原因とする知的能力の減退の特色とよく符合すると思われる上、証拠(乙第三四号証の一、二、同号証の六、七、第四二号証)によると、昭和五七年八月九日当時、金作の左視床及び右内包前脚に低吸収域が認められたこと、昭和五八年一一月二四日当時には、金作の右尾状核付近の低吸収域の範囲の拡大及び明瞭化、側脳室右前角の低吸収域の拡大、両側視床前角の小低吸収域の発生などが認められたこと、昭和五九年一〇月一日当時には、右尾状核付近の低吸収域がさらに拡大、明瞭化するなど、脳梗塞がすすんだこと、昭和六〇年一月一一日当時には、さらに右小脳半球後上面に新たな梗塞が発見されたこと、以上の事実が認められ、これらを総合すると、金作は、多発性脳梗塞を発症し、これを原因として種々の症状を呈していたものと認められる。

(三)  以上を前提として、医学的見地から第二遺言当時の金作の精神能力を検討する。

(1)  本件では、次のとおり、金作の遺言能力に関して相対立する二つの見解が存在する。

①  原審における鑑定人灘波益之(同人作成の甲第六号証、当審における証人灘波益之も同様。なお、原審における証人山本纊子の証言も同じ結論に至っている。)は、大要、次のように分析・判断する。

ア  金作には、第二回目の入院中、意識障害が改善された後も見当識障害や記憶・記銘障害が認められたが、それらの症状が日により、あるいは時間帯によって良くなったり悪くなったりしていたことや、脳の損傷が大脳の一側にすぎず、その程度も不完全であったことなどに照らすと、これらの機能は完全に喪失するまでには至っていなかった。

すなわち、金作は、症状が時や場所が正しく言えないことがあったが、これは正常人でもままあることであるし、記憶の障害の可能性もあるから、これをもって直ちに痴呆と判断することはできず、かえって、金作が、昭和五九年一一月一七日、周囲の人の話をよく理解して適切な指示を与えたことなどに照らすと、実際は、時に対する見当識や正常な判断力・決断力を保持していたことが明らかである。

イ  時の見当識障害、目を開けようとしない、記憶・記銘力障害、自発性低下、ボーッとしている、無感動、無関心などの金作の症状は、一時的意識障害によって生じ得るもので、これらの痴呆様症状は、リハビリ時における強い身体的負荷や低血圧等の内科的疾患、特に洞徐脈(心臓の拍動の調整機能が働かず、脈搏数が減少し、一分間に五〇以下となった状態)が作用したことによってもたらされた脳の酸素欠乏状態によってもたらされたものであり、その知的能力は、意識レベルの変動によって左右され、覆われていた。

ウ  したがって、金作は、意識清明の状態ではその知的能力を発揮し得たところ、第二遺言当時、立ち会った医師山本纊子は、時と周囲の状況に対する見当識の存在を確認し、リハビリの様子の自発的回答、第三者からの発問に対する応答ぶりとその内容を観察するなどしており、金作が、問題を理解、判断し、適切な指示を与える能力を有していたことは明らかである。

②  当審における証人中川実(同人作成の乙第三三号証も同様。前記禁治産宣告申立時に作成された乙第四号証も同じ結論となっている。)は、大要、次のように分析・判断する。

ア  金作は、第一回目の入院時から、多発性脳梗塞に罹患していたもので、末期に至るまで、意識障害に加えて、記憶・見当識障害や注意の障害などの認知障害が認められる。

イ  金作の認知障害は、身体合併症ないし身体状態に起因する意識障害の影響で動揺を示しているが、意識清明時においても記憶や見当識が障害されていることに照らすと、意識障害のみに認知障害の原因を求めることは無理である。

また、金作のように、長期にわたって継続的な意識障害が存在した場合、一時的に意識障害が改善しても、直ちに認知機能が回復するものでもない。

ウ  金作は、アメリカ精神医学会が作成したDSMⅢやDSMⅣ、又はWHOが作成したICDなどの診断基準に照らし、あるいは長谷川式簡易知的機能評価検査の結果に照らすと、中程度の痴呆状態(知能指数に換算して四〇台)にあったもので、これによって金作の知的能力、とりわけ抽象的思考能力と先のことの予見能力がかなり障害され、社会生活を送る上で他人によるかなりの介助ないし保護を要する状態に至っていると考えられるから、高度な法律行為である遺言をする能力、すなわち、自分の財産を遺贈することの「意義を十分に認識できない」状態であった。

エ  多発性脳梗塞による痴呆は、動揺性、段階性を示すのが特色であり、また中程度の痴呆状態にある者でも、他人からの質問にある程度の回答をすることはあり得るところ、金作は、場当たり的に作話的な答えをすることが多かったと思われるので、時に質問に正しい応答をしたり、一般的、瞬間的な会話を交わしたからといって状況を理解していたとは限らない。

第二遺言当日の医療記録から推定できることは、金作には根深い意識障害が存在しなかったということのみであり、認知障害の存否は判断できず、かえって、看護記録には、朝食を摂取した事実を記憶していないことが記載されているので、記憶障害が存在していたことが明らかである。

(2)  右両者の見解は、金作が、第二回目の入院の際、(その程度はともかくとして)多発性脳梗塞を発症していたこと、入院中、金作に意識障害と、見当識障害や記憶・記銘力障害が認められたこと、以上の事実認識において共通している。

しかしながら、金作の言動等の揺れについての理解は正面から対立し、灘波鑑定人は、金作は、潜在的には正常な知的能力を保持していたものであり、痴呆様の症状を呈していたのは、洞徐脈による一時的意識障害の結果であるとするのに対し、中川証人は、金作は中程度の痴呆であったものであり、時に正常な言動を示したとしても、正常な知的能力を具備していたとは限らないとする。

(3)  そこで、まず、金作が、正常人に近い認識、判断能力を有していたかについて判断するに、認定にかかる別紙入院経過表によれば、金作については、右期間中、ほぼ一貫して何らかの見当識障害が認められ、特に時間についての見当識障害は頻繁に記録されており、次いで場所についての見当識障害の記述が多く、稀には対人関係についての見当識障害も見受けられる(昭和五九年一月二五日、昭和六〇年一月四日)。また、記憶・記銘力や計算力の障害についても、しばしば記録されており、中には少し前に食事をとった事実すら覚えていなかったり(昭和五九年四月一七日、同年五月六日、同年六月六日、同年七月一四日、同年八月一九日、同年一一月一二日、同年一二月五日、同月一五日)、自分や孫などの名前を思い出せなかったり(昭和五九年一月二五日、同年六月二七日、同年七月二六日、同年八月三〇日)している。その他、せん妄状態に陥っていたと思われる時期も見られる。

加えて、長谷川式簡易知的機能検査の結果は、第一回が14.5点(昭和五九年七月三日)、第二回が17.5点(同月一一日)、第三回が一一点(同月二五日)、第四回が15.5点(同年八月三日)であり、証拠(乙第六〇号証、証人中川実)によると、当時、金作が前痴呆(中程度)状態にあり、単独では完全に身辺管理をすることが困難であったことを示している(なお、右検査結果中、第三回目の点数が相対的に低いが、これは同日の記述からも明らかなとおり、金作が検査に対して反抗的な態度で臨んでいたことの影響と思われる。)。

しかしながら、他方で、入院後約二か月を経過したころから、活動性がやや回復したことを窺うことができる(それまでの間は、傾眠傾向にあるとの記述が頻繁に出てくる。)上、日によって、あるいは時間帯によって、かなりの知的能力、活動を窺わせる記述が見られ(昭和五八年一一月二六日、同年一二月六日、昭和五九年一月一日、同月一一日、同年二月一日から同月四日、同月九日、同年六月一五日、同月二三日、同月二七日、同年七月六日、同月一七日、同年八月二〇日、同年九月二一日、同月二三日、同年一〇月一五日、同月二九日、同年一一月一二日、同月一七日、同年一二月一八日、昭和六〇年一月四日)、これらの中には正常人の言動と比べて遜色がないと思われる内容のものも含まれていること、証拠(証人山本纊子、同中川実)によると、多発性脳梗塞を原因とする知的能力の低下を完全に治癒することは不可能であるとしても、脳代謝改善剤や向精神剤の使用によって症状を一時的に改善することは期待できること、昭和五九年五月ころには、金作の精神状態はかなり改善され、第二遺言の少し前ころ、ハツエが金作の印章の保管ないし使用に関して山本医師に愚痴をこぼしたところ、金作がその内容を正確に理解した上で、立腹したこと、以上の事実が認められ、これらを総合すると、中川証人のように、正常な知的能力の存在を窺わせる言動のすべてを金作の作話傾向や人格の残存など、知的能力と無関係なものによって説明することは、やや一面的に過ぎるといわざるを得ない。

特に、証拠(証人西川豊長、同長坂顕雄、同山本纊子)によると、第二遺言がなされた当日、公証人西川豊長は、金作に対し、まず住所、氏名、生年月日などを尋ねて確認し、次に金作のいる場所や時計の文字が読めるかなどの点についても確認し、さらに、公正証書の作成を依頼された代理人から予め聞いていた遺言内容が金作の意思に合致していることを確認したこと、特に遺言執行者を誰にするかという問題については、金作自らハツエと晴昭の名前を挙げ、最終的にはハツエを指名したこと、このような過程を経て、右公証人は、金作の体調及び心神の状態が予想以上によいとの印象を抱いたこと、山本医師は、金作に対して、月日、同席していた人物(弁護士)、その時の気分及びリハビリの様子等を尋ねて確認し、また善悪に関する事項を話題にしたりして約一〇分ほど会話を交わしたこと、その結果、山本医師は金作が正常な判断能力を有するものと判断したこと、以上の事実が認められるのであって、これらを総合すれば、金作は、灘波鑑定人が指摘するように、少なくとも潜在的には物事の善悪を判断し、それに対応した行動をとる能力を保持していたものと認めるのが相当である。

なお、かかる認定を前提とすると、金作の示した見当識障害や記憶・記銘力障害などの痴呆様症状が何に由来するのかが問題にならざるを得ないところ、証拠(甲第七号証、乙第三六号証、第六四号証、当審における証人中川実、同灘波益之)によると、金作の右症状の出現と脈拍数の低下とは必ずしも連動していないこと、金作の洞徐脈の程度は重いものではなく、十分な血液循環量を保つのに必要な全身血圧が維持されていたこと、以上の事実が認められるので、洞徐脈を主たる原因として右症状の出現を説明する灘波鑑定人の見解を全面的に採用することには躊躇せざるを得ず、その程度は別としても、金作が、多発性脳梗塞を原因として、その知的能力を低下させていたこと自体は否定し難い。

しかし、他方で、金作の認知障害が身体合併症ないし身体状態に起因する意識障害の影響を受けていたことは、中川実証人も認めるところである上、証拠(灘波益之証人)によると、完全な痴呆の段階には至らない者の精神状態は、日により、あるいは時間帯により、良くなったり悪くなったりするなど、大きな動揺を示すことが多いと認められ、結局、右意識障害の影響と精神状態の動揺との両者の要因があいまって金作の前記症状をもたらしたと認めるのが相当である。

(4)  そこで、具体的に、第二遺言時に金作が示した知的能力の程度について判断するに、前記認定のような西川豊長公証人や山本医師との対話状況に照らすと、金作が発揮した知的能力は、正常人よりは劣るものの、物事の善悪を判断し、それに対応した行動をとる程度には達していたと解され、これに、全財産をハツエに遺贈するとの第二遺言の内容が比較的単純なものであることをも考慮すると、金作は、法律的な側面を含めてその意味を認識していたと認めるのが相当である(中川実証人は、第二遺言当日の記述から分かることは、金作に根深い意識障害がなかったことのみである旨証言するが、知的能力の発揮によるものではない理由について、首肯するに足りる理由を示していない。ちなみに、同証人も、金作が自己の財産をハツエに遺贈することは「分か」っていたと思う旨証言している。)。

3 以上のとおり、遺言に至る経緯との整合性及び医学的見地からの各検討結果によっても、金作が第二遺言当時、遺言能力を欠いていたと認めることはできず、この点に関する控訴人の主張は採用できない。

二  争点2について

1  まず、控訴人は、第二遺言書は民法九七三条の要件を充たさない無効のものである旨主張し、これに沿う証拠として乙第三号証(承継前の一審原告が本件訴訟提起に際し、資格証明文書として提出したもの)を提出している。

しかしながら、証拠(甲第一号証、第四号証、第五号証の一、証人西川豊長)によると、第二遺言書の原本には、当初から、金作が、第二遺言当時、心神喪失の状況になかった旨の医師である立会人二名による付記及び同人らの署名押印がなされており、乙第三号証にこれがないのは、謄本作成時における公証人役場の過誤によるものであることが認められる。

そうすると、控訴人の右主張は、前提事実を欠くものであって、採用できない。

2  次に、控訴人は、第二遺言書は、公証人法三六条九号の定める要件、すなわち、立会人二名(長坂及び山本の両医師)が立ち会った旨及びその事由並びにその年齢の記載を欠いているから無効であると主張する。

しかしながら、第二遺言書に記載された付記の内容に照らせば、右医師らが、民法九七三条の規定に基づく立会人として第二遺言に立ち会った事実を容易に認識することができるというべきである。

また、公証人法三六条各号掲記の事項の記載を欠く証書がすべて無効となるわけではなく、その効力は、各事項の記載が要求されている趣旨によって個別的に判断されるべきであるところ、立会人の年齢の記載は、これにより立会人の特定を容易にすることに主たる目的があると考えられるから、第二遺言書のように、住所、職業など他の記載から右特定が十分に可能な場合は、年齢の記載を欠くからといって直ちに証書全体の無効原因となるものではないと解するのが相当である。よって、控訴人の右主張は採用できない。

3  さらに、控訴人は、公証人法三五条により、第二遺言書を作成した公証人は、金作が禁治産者であることを証する書面を徴し、その時点で金作が本心に復していたことを確認すべく立会医師から事情を聴取して、これらの事実を公正証書に記載すべきであるにもかかわらず、これらが尽くされていないと主張する。

しかしながら、公証人法三五条は、公証人が証書を作成するに際し、「自ら」実験した事実を録取し、その方法を記載することを要求することによって、その責任の所在を明確にし、その作成過程に公証人以外の第三者が関与することによる過誤を未然に防止することを目的としているものと解される。

したがって、遺言公正証書に記載されるべき内容としても、民法が手続要件として定めるものでもって必要十分であり、これを超えて、実体要件が充足されていることを公証人が確信するに至った事実及びその過程の記載が求められるものではないから、控訴人の右主張は採用できない。

4  また、控訴人は、第二遺言については、証人として加藤知明弁護士が立ち会っているところ、同人は、ハツエから訴訟委任を受けて代理人となっていた者であり、実質的にハツエと同視すべきであるから、遺言の証人欠格を定めた民法九七四条三号に抵触し、無効である旨主張する。

右条項が、当該遺言に関して強い利害関係を有する一定の者の関与を排除し、もって遺言者の意思が正しく遺言に反映されることを目的としていることは控訴人主張のとおりであるけれども、法律関係安定の見地からみて、右は制限的列挙と解すべきである(その性質上、方式の履践が不可能ないわゆる自然の欠格者を除く。)から、ハツエの訴訟代理人となっていた加藤知明弁護士が証人の一人となっているからといって、第二遺言が無効となるものではなく、控訴人の右主張は採用できない。

三  争点3について

控訴人主張の贈与契約締結の事実については、これに沿う証拠(乙第五五ないし第五七号証、第七八号証、第八一ないし第八三号証、第八六、八七号証、第九〇号証)もある。

しかしながら、右各証拠によっても、右契約成立の際に書面が作成されなかったことが明らかである上、前記(一1(一))のとおり、金作は、金銭面に細かく、それまで他人に財産を譲渡するなどの行為をしたことがなかったこと、その直後に作成された第一遺言では、控訴人に財産全部を遺贈するとの内容になっており、生前に全財産を控訴人夫婦に贈与する旨の本件贈与契約の内容と抵触すること、現実に金作の所有にかかる不動産に登記をしたのは、金作に対する禁治産宣告の申立てがなされた後のことで、控訴人主張の贈与契約成立日から相当な月日が経過していること、しかも、登記の内容は、用益物権、担保物権などが多く、所有権に関する登記でも、控訴人主張の贈与契約を登記原因とするものは見当たらないこと(このような登記がなされた理由につき、控訴人及び勉は、前掲各証拠において、贈与税、登録免許税の負担を考慮したものであり、司法書士の指導に従ったまでである旨弁解するが、その内容自体、著しく不合理で採用できない。)、証拠(乙第五六号証)によると、金作(法定代理人ハツエ)が控訴人夫婦らに対し、前掲各登記の抹消登記手続等を求めた別件訴訟において、控訴人夫婦は、当初、前掲各登記は金作の所有財産が勝手に処分されないよう、金作から信託を受けてなしたものである旨主張していたことが認められること、以上のような事実を総合すれば、前掲の積極証拠は到底採用できるものではなく、他に控訴人主張の事実を認めるに足りる証拠はない。

第五  結論

よって、被控訴人の本訴請求を認容した原判決は相当であり、本件控訴は理由がないから、これを棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官渡辺剛男 裁判官加藤幸雄 裁判官矢澤敬幸)

別紙入院経過表<省略>

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